特集 明日ヘつなげる島

私の地域経営論
住民と行政との協働を〜笠岡諸島海物語
行政と島の住民が一丸となって離島振興に取り組んできた笠岡諸島。
ともに支え合って暮らす「コミュニティ楽園の島」を到達点に掲げた実践の様子を紹介する。
          岡山県笠岡市長 高木直矢

 あらためて「地域経営論」などといえば恥ずかしい限りですが、一部離島を持つ小さな都市の首長として、「住民とともに生きる」という自治体運営の原則を実践するなかで生まれた「元気印の笠岡諸島海物語」を、以下ささやかな報告として記してみたいと思います。

三つのスローガンのもとで
 平成12年、市長に就任した私の行政推進のテーマは、@番笑顔で暮らせる笠岡、A夢溢れる笠岡、B揺ぎない笠岡、という三本柱でした。
 「笑顔で暮らせる笠岡」とは、乳幼児、子ども、学生、若者、女性、高齢者など市民みんなが協力し合い、ともに力を合せて、明るく笑顔で毎日を過ごせるよう、生涯を通じたライフサポート的事業を施策の全分野で推進しようというものです。
 「夢溢れる笠岡」とは、笠岡の未来展望、課題克服を考える地域づくりに市民との協働の場を設け、それらを推進する人材育成を支援し、「住んでよかった笠岡」をテーマとしたものです。
 「揺ぎない笠岡」は、協働のまちづくりを推進していく基本として「効率的で信頼され、打てば響く市役所」というソフト面と、道路や下水道といった生活関連の基盤整備など、ハード面の計画的充実をしっかり実施していこうというテーマを掲げたものです。
 この3つのスローガンに、もっとも強い思いを寄せられたのは、笠岡諸島の有人七島のみなさんでした。
 「昭和30年代には、1万人を超えていた島の人口が、40年代に8000人、50年代6000人へと減少を続け、今では3000人台。島の基幹産業であった石材採掘も、最盛期の100社を超す繁栄が見る陰もなく、漁業の従業者も高齢化が急速に進んでいる。このままでは島が滅びる」。
 こういう島の方々の不安と焦操の思いは、私の掲げる3つのスローガンと共鳴し、大きな期待と映ったようでした。
 そうはいっても、「地域づくり」や「島おこし」に、そう簡単な特効薬はありません。

普段着の会話で〜巡回市長室の開始〜
 私の「活性化のための戦略」は極めてシンプルでした。
 まず、市長の自分自身が「地域に入り、地域と語り、地域の人に学び、ともに考え歩む」という行政スタイルを貫き通すことでした。
 名づけて、「巡回市長室」の実施です。
 市内、各地域のいろいろな会合の席に招いていただいて、私が気軽に参加し、市政に対する率直で素朴な生の声を聞くわけです。
 同じような取り組みを多くの首長がされていると思いますが、私の場合は徹底して市民の側に視点を置きましたから、「巡回市長室」も市役所で計画するのではなく、地域が主催するわけです。同行する市のスタッフも大名行列のような多人数でなく、秘書と書記の二名ほどで、昼夜、土日を問わず、地域の都合で開
催される会合へ出向き、普段着の会話を始めたのです。予算編成期前の5〜8月の4ケ月間を「巡回市長室月間」としました。
 平成12年から毎年継続していますから、実施回数は150回を超えるでしょう(おかげで年中無休でもあります)。
 開催手法が、いわゆる飛び込み方式″ですから、さまざまな心配もありますが、地域のどんな悩みや課題要求にもヒザをつき合わせて親しく話し合えば、相互理解が図られるとともに、地域にはそれぞれ素晴らしい知恵があることに気づかされます。
 こうした取り組みのなかで、とくに大きな悩みを持つ島々からの私に対する期待や要望は、まさに深刻で切実でした。医療、高齢化、教育、港の整備、交通便、救急艇、雇用、漁業など、生活の全分野について悩みを聞かせていただいたものです。
 島の方々の、島を思う切実な声のなかから生まれたのが「行政が島の住民となること」「島おこしを行う人材投入」の決意であり、平成13年の「島おこし海援隊」(後述) の発足となったわけです。以来、「海援隊」 は、各島の人材育成と行政との協働という島おこしをじつに見事に成し遂げてくれました。
 各島の人々の熱い思いが、「海援隊」という行政的人材を得てヒ−トアップし、単なる島おこしから、島づくりの「面」 へと進み、島の住民組織「島づくり海社(かいしゃ)」の設立へと発展、意気揚々の気運を創り出してくれています。



海と島は笠岡の宝
 本市は岡山県の西南部に位置し、広島県福山市と接しています。また、南は風光明媚な瀬戸内海に臨み、総面積136平方キロ、東西13.6キロ、南北33.6キロの広がりがあります。
 年平均気温は約15度、年間降水量は1000mm前後という、温暖少雨の典型的な瀬戸内海気候を有しています。
 平成17年の国勢調査では、人口57266人、20236世帯となっており、この10年間は緩やかな減少傾向にあります。
 高齢化率は、離島を持つ影響もあって27%と非常に高いものとなっていますが、陸地部の福祉施設は老人保健施7つの有人島が連なる笠岡諸島(北側上空より)。
設6ヶ所、デイサービスセンター4ケ所、在宅介護支援センター5ケ所などが整備され、6万人弱の都市としては、極めて高い水準にあるといえます。
 本市は、昭和32年に離島振興地域の指定、47年に島しょ部を除く地域に都市計画地域の指定、さらに平成7年5月には地方拠点都市地域指定を受けるなど均衡ある都市形成に努めてきました。
 また、国際交流の一環として、平成11年にスウェ−デンのモービロンガコミューンと福祉交流、マレーシアのコタバル市と産業交流を図るため、友好握手都市縁組(シェイクハンズ) を結んでいます。
 笠岡市における特徴的な施策には、@23年の歳月と300億円を投じて1081ヘクタールの海面を陸地化した「笠岡湾干拓事業」(八郎潟に次ぐ日本二番目の広さ)、A27年をかけ550世帯、約7300の墓地移転を行い、都市再生を実現した「駅前土地区画整理事業」、B世界で唯一の研究・展示施設として知られる「カブトガ二博物館」、C自治体としては最初に取り組みを開始した認知症高齢者グループホーム「炉端の家」や「グループホーム国際サミット」の設立と実践、など多くの事例がありますが、笠岡らしさの最大の特徴は、市域の大半(約90%)が陸地部でありながら、海を持ち、人々の生活する7つの島を持つという「海や島」にあるといえます。つまり、笠岡市にとって新しい大地「干拓地」とともに、「海や島」は宝であるということです。

島の悩み「福祉・医療」
 笠岡諸島は大小30あまりの島々から構成され、四国の多度津(香川県)との問に飛び石状に点在していますが、人が住んでいるのは、本土側から高島、白石島、北木島、真鍋島、小飛島、大飛島、六島の7島です。全国の一部離島自治体のなかでは、合併して有人8島を持つことになった愛媛県松山市に次いで、本市の7島が日本で2番(合併前では日本最多) ではないかと思います。現在、この離島の人口は2900人あまり。高齢化率はじっに55%に達しています。
 昭和30年代には人口も1万人を超えていたのですが、いまやその当時の面影はなく、この10年間でも約2000人(年平均200人) が島から離れるという状態が続いています。豊かな自然に恵まれているものの、交通の便の悪さというハンデがあるなかで、若者たちの定住はままならず、ほぼ二人に一人は65歳以上という、まさに日本の超高齢化社会を先取りしている状況にあります。
 「一島一自治体」とは異なり、市城の一部に七つの有人島を持つという自治体として、離島振興政策上の大きな悩みは、海上交通の問題もさることながら、港湾整備、医療・福祉施設整備というハード面への財政投入の困難さです。
 これまでも、島の産業基盤充実のために港湾整備を継続したり、漁業では「海洋牧場」事業、石材業では「石彫シンポジウム」などユニークな事業を展開したりしてきていますが、島の方々のとくに強い願いは、やはり高齢化に対応する施策(医療・福祉サービス) の推進にありました。
医療機関のある島と無医島を結ぶ患者輸送船を設けていますが、高齢化の進む島の住民の医療・福祉への不安は大きいものがあります。加えて、交通ハンデのなかで福祉サービスもままならない状況でした(現在は、「海援隊」の活躍で各島すべてに診療所が開設され、医師派遣を実現しています)。

デイサービス船「夢ウエル丸」の就航
 そこで、「各島への福祉施設の設置が困難ならば、施設の出前
を行おう」との発想で、平成5年、全国で初めての「動くデイサービス」として、福祉の船「夢ウエル丸」の運航を開始しました。
 デイサービス機能を持つ船「夢り工ル丸」が、各島を月2回訪ね、午前中は寝たきりの方の入浴サービス、午後からは一般高齢者のリハビリと健康チェックなど行います。
 診療機会の少ない島の方々にとっては、たとえ医師の訪問はなくとも、看護師さんの健康チェックだけでどんなに心強く思われるものか、船を訪れる方々の表情に示されています。
 寝たきりのために、自宅で家族に身体を拭いてもらうだけで1年も2年も湯船に入れなかった方が、「夢ウエル丸」の特殊浴槽に入り、スタッフの手を握り「気持ちエエー、生きていてよかった」と言われたときの満面の笑顔。
 血圧測定で体調を確かめ、仲間同士が肩を並べて「夢ウエル丸」 の一般浴槽に入り、風呂上がりにカラオケで自慢のノドを披露する幸せそうな顔。
 陸地の老人クラブとの船上交流でゲームをやり、神楽を舞い、歌を唄い、まるで「お祭りがやってきたようだ」と喜ぶ人々。
 こういう感動の場面に出会うたびに、「夢ウ工ル丸」がこれからも島の高齢者にとって「心と心を結ぶ橋」であり続け、名実ともに「夢を植える船」として、その機能を存分に発揮し続けてほしいと願っています。

島をひとつに〜島の大運動会〜
 このように、医療・福祉をはじめ、各種施策に一定の前進は見えていますが、働く場所の確保などの不安や悩みが人口減の一国ともなり、島の活性化にはまだまだの感がありました。
 こうした局面打開に立ち上がったのは、島に残る若者たち(といっても40〜50歳代ですが) でした。
 「市民参画のまちづくり」を推進するため、市民の自由な発想と個性あるまちづくり企画を行政が支援しようと募集した「まちづくり支援事業」に、笠岡諸島の若者のアイデアが「島の大運動会」企画となって登場してきました。平成10年のことです。
 「過疎化する島を活性化するためには、七つの島が一つになること。みんなで心を合わせて島おこしをやっていこう」という北木島の若者の呼びかけに全島が賛同したのです。平成10年5月21日、第1回目の「島の大運動会」 には島の全住民はもとより、本土に住む島出身者も含めて5000人規模の参加となり、島全体が燃え上がりました。
 第1回目は北木島で、以後、白石島、真鍋島、高島、飛島、六島と、毎年島の団結を強めながら持ち回りで開催されています。
 「島の住民が考え、行政が支援し、協働して島おこしを実践していく」。この自治の原則を改めて教えてくれたのは、島で生活している若者たちの活性化への思いであったことも忘れられません。
 それまで七つの島々では、自分たちの住む島への愛着はあっても、「七つの島が一つ」という思いは弱かったようです。島と島とを結ぶ大運動会の開催は、「島の連帯、島は一つ」という団結心″を創り上げる契機となりました。

行政組織「島おこし海援隊」発足
 「島は、特殊な条件からくるいろいろな制約がある。だから陸地部と比較すれば、多くの分野で遅れていることは確か。しかし、それを克服しようとするエネルギーを島は持っている」。
 「近年、島の弱みばかりが目立っているけれど、市長さん、島には島の強みがある。しかし、それらを生かすことを考えたとき、今、一番不足しているのは、人材です」。
 「島おこしをやるべきだ。しかし、やる気のある者は多くいても、日々の生活があり、専属ではできない。事務局的な中心となる人材が島にいない。だから、そういう機構と人材さえいれは‥…」。
 このような住民の発言を聞き、「島おこし」を行うためには、島の人々の「本音」の部分に行政が腹を割って、心を通わせながら取り組んでいくことのできるスタッフが必要不可欠だと痛感したわけです。
 そこで、島の方々に学びながら協働し、島と海で生活する人々を応援する任務を持つ特命組織≠ニして、市長直属の「島おこし海援隊」を発足させました。
 「島おこし海援隊」の成否は、島の方々の思いが理解でき、骨身を惜しまず、島の方々と一緒になって頑張る気概のある市職員を選べるかどうかにかかっていました。
 この前例なき仕事に挑戦する人材を市職員のなかから募集、私自身が直接面接、三人を選びました。決意を持った三人の隊員に私が伝えた言葉は、「市職員としてではなく、島の住民となって働いてくれ」の一言でした。
 ちょうどその頃、歌手の武田鉄矢さんが「島おこし海援隊」の話を聞きつけ、北木島ヘホンモノの「海援隊」として応援に来てくださったのには、驚いたり、感激したりで、島中が大喜びに沸いたものです。

島の住民と歩む「海援隊」〜島のなかにこそ知恵がある〜
 発足以後、「海援隊」の活動は島を勇気づけています。島での問題、課題克服のため、島の各種の会議に出て、昼夜を問わず島の住民の一人として考え、本庁の行政課題につなぎ、解決を図り、たとえ解決しなくても方向性を示し、義務と責務を果たし続けています。
 三人のうち、隊長は島の産業おこしを主目的とし、石材販路拡大、観光資源としての修字旅行誘致などに奮闘。中隊長は、地理的条件克服の武器となるIT化推進のため、連日連夜、各島を飛び回り、高齢者の方々を対象にパソコン教室を開催。今では、全ての島で高齢者がパソコンに親しんでいます。例えば真鍋島では、インターネットで結ばれた「島おこしバーチャル村民」が100人を超え、そのなかには遠くオーストラリアの方もいると聞きました。パソコンでつくる島の情報誌『しまかぜ』は各島の話題情報満載です。
 そして小隊長は、いわゆる島のよろず相談員″として、島の世帯すべての戸別訪問を展開しています。「港に行くまでの交通手段に困る」と聞けば「ミニタクシー」を設立し、「港に車イスと担架」を設置し、坂道には「手すり」を取りつける。無医島へは陸地部の医師と交渉、医師の月二回の訪島診療にまでこぎつけています。
 行政がハードや財政的投資だけでなく、人材投資を行うことにより、島の方々からの喜びの声、元気な声、期待の声がこれほど寄せられたことを私は知りません。
 「海援隊」が夜遅くなれば、パソコン塾生の高齢者の方々がポケットマネーを出し合い、船をチャーターしてくれるという話を聞き、「海援隊」がまさに島の住民≠ノなりきっていると感じています。

住民自らがつくった振興計画
 「海援隊」は平成13年以後、毎年形を変えながらも住民参加の「島づくり研修会」を開催し、住民の「自らが担う島づくり」の意識の継続に努めています。
そのなかから、平成14年には住民の手でつくり上げた「笠岡諸島振興計画」が策定されました。
 これは、離島振興法に基づく離島振興計画作成の義務づけ前に、住民自ら手掛けたという点に大きな土塁我があります。住民の会話のなかで生まれてきた施策が計画のなかに織り込まれ、行政と住民の「施策の共有」は、以後の「島づくり計画」を推進していく上で大きな強みとなっています。

七つの島を一つの会社に〜「海社(かいしゃ)」設立〜
 また、「笠岡諸島振興計画」づくりを契機として、「七つの島を一つの会社とみなして、島を豊かにする産業を起こそう」という構想が持ち上がりました。海や島で生活する人々を応援する部隊として派遣された「海援隊」の島の住民としての集大成的事業です。
 名付けて「電脳笠岡ふるさ島づくり海社」。住民全員が社員となり、住民のなかに社長、観光部長、開発部長がいて、課長に係長がおり、各島にそれぞれ支社長がいるという仕掛けです。
これは、島を会社組織にすれば、島の人が「何か利益が上がる」という意識で、どんな取り組みにも参加者が増えるという声を生かしたものです。
「会社」というのはあまりにもストレートすぎるという意見で「海社(かいしゃ)」としたのも、海援隊と住民の工夫の一つです。
 こうして、「電脳笠岡ふるさ島づくり海社」は、平成14年8月9日、各島の代表者によって設立されました。
 初年度は、県と市の助成金940万円で出発です。活動のなかから住民が順次株出資ならぬ助成金を出資し、「海社」を育てていく構想です。 活気ある島づくりを推進するために、「海社」はそれぞれの島
の特徴を生かし、主に図のような取り組みを展開しています(前ページ図参照)。
 いずれの取り組みもユニ−クですが、住民の意識を一変させた取り組みの一番は、「空き家対策事業」です。
 狭小な島内では、土地や家に関しては非常に根強い「持主意識」があり、本土へ転居して空き家であっても、売却や賃貸はタブー視されていたものでした。
「海社」社員の熱心な連日の討議は、こうした障壁を乗り越えたのです。
 島内にある空き家で、売却もしくは賃借可能なものをリストアップし、インターネットなどを使って入島の呼びかけを行ったものです。平成16年2月、滋賀県から二人が高島へ初の移住を実現。住民あげての大歓迎のもとで各島支社も「空家巡りツアー」を企画し、現在、笠岡諸島全体で9世帯16人の方々が移住されています。




島を思う行政の悩み
 このように文章で表現すると、話題典春田で、順調そのものに見られそうですが、課題や悩みの多さと大きさも同様にあるわけです。
 今後の離島振興を思う暗、ハード面における最大の課題は「IT問題」です。
 「海社」も、「電脳」をタイトルに掲げたように、離島という地理的ハンデを克服する最大の力は、パソコンとインターネットです。
「海援隊」の諸君が、島の高齢者に熱心にパソコンを教え、今では島の高齢者でも、パソコンで島内情報新聞を作成し、インターネットで営業を開始するレベルとなっていますが、残念ながら光ファイバー網はどの島にも入っておらず、市内に張りめぐらされたケーブルテレビ網も島には届きません。
 地理的ハンデのなかで、ファイバー網を最も必要とする離島には整備が極めて困難、という状況にならざるを得ないのが、自治体経営の現状なのです。
 本市の「地域情報計画」 のなかで、離島への光ファイバー整備を試算すると約10億円、補助金などを入れても約5億円の財源投資が必要であり、本市の行政状況の総合性からみて足踏みを余儀なくさせられる難題です。これは、一部離島を持つ全国の小都市にとって、共通の悩みであると考えます。

「海援隊」発足の初心を大切にして
 ソフト面の課題は「住民と行政との協働」です。
 平成13年の「海援隊」の発足は、志願職員による「協働」のモデル的読みであり、島を応援する行政組織の強化に向けての時限立法的措置でした。これまでの四年問の成果は、志願職員の「人材力」と住民との思いが見事に調和した結果といえます。
 これからは、この行政の初心をどのように継続していくかが最大のポイントです。つまり、「海援隊」発足の初心を常に行政が組織として保ち続けられるかが課題となります。
 「海社」という住民の力による集大成的な組織が出来上がったので、今後は「島のことは住民の力で」というようなあたり前の表現≠ヘ、元気の出始めた島にネガティブな影響を与える可能性があります。
 絶えず次のステップの目標を、住民と行政とが同じ思いで創りながら、その核心部分には行政の力、つまり住民にとっての「安心感」の存在を確信させていかなければなりません。
 行政自身に、また、私自身に改めて言い聞かせる言葉です。

日本の未来を先取る〜「コミュニティ楽園」の実現へ〜
 私の笠岡諸島への思いの到達点は、「コミュニティ楽園の島」の実現です。
 笠岡諸島には地理的なハンデはありますが、「美しい自然、温かい人情、ゆったりとした時の流れ」が味わえる大きな強みがあります。
 激動する現代社会において、社会の、人の心の渇きを癒す場の一つが、私どもの笠岡諸島です。
 団魂世代をはじめ、心の癒しを島に求める方々が急増しています。先日、「海社」が実施した「空家巡りツアー」の全国からの応募人数がそれを象徴しています。
 私は、島の高齢化率の高さを心配していません。人口の減少も心配していません。人口増や若者定住の望みばかりを追及するのでなく、人が人たるにふさわしいコミュニティのなかで、生活するに豊かな笠岡諸島であってほしいと願っています。
 隣人同士が相互扶助の支えあい″ のもとで、「介護保険を必要としない島」「豊かな自然に恵まれた自給自足で暮らせる島」の実現を望んでいます。そこには、自治の原点である「地域で暮らす人々と行政との協働の取り組み」がしっかりと根づいていなければなりません。
 笠岡諸島は、ある意味で将来の日本の縮図といえます。その笠岡諸島を、私は一足先に「強くてぬくもりの感じられるやさしい島々」として、島の方々と力を合わせ創り上げていく決意です。



高木直矢(たかぎなおや)
昭和16年笠岡市生まれ。34年笠岡市に就職、秘書広報課長、企画部長、助役などを歴任、平成12年笠岡市長に就任。16年再任、現在に至る。国土審議会離島振興対策分科会特別委員。全国離島振興協議会理事。

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