斎藤 潤
第十九景 笠岡諸島 (岡山県笠岡市)
笠岡諸島移住事情

■なぜ、空き家を貸してくれないのか

 常々、歯がゆく思っていることがある。
 島々の空き家が放置され、虚しく朽ち果てるに任されているという現状だ。

 瀬戸内の島々を歩いていると、とくにその感を強くする。外海で自然条件が厳しく、交通の便も悪い上に、観光的な魅力も少ない島ならば、残念だが仕方ないと思える。
 しかし、瀬戸内の島々の多くは、本土からも近く穏やかな自然とそこそこの船の便数などに恵まれている。過疎化・高齢化に今も歯止めがかかっていない理由が、教育、医療、産業の有無などにあることは、分か
っているつもりだ。
 それでも、もう少し活用のしようがある移住者たちの声と「空家巡りツアー」のではないか。離郷者だけではなく、すべての都会人が島に背を向けているというならともかく、島に住んでみたい (田舎暮らしをしたい)、すぐに住まないにしても島に家を借りて足繁く通いたい、という人は少なからずいるのだ。島に来ている旅行者から、そんな希望を聞くこともあれば、島に遊びに来た人間から、貸してくれる家はないか、売りに出ている家はないか、よく質問されるという島人にずいぶん会った。
 空き家があって、借りたい人がいる。それなのに、なぜなかなか貸借関係が成立せず、廃屋となるまで放置されているのか。
要するに、空き家の持ち主は、なぜ借りたい人に貸そうとしないのか。機会があるたびに、過疎に脅かされていると嘆く島の知人たちに訊いていたら、いくつかの共通する理由が浮かび上がった。
 見ず知らずの人に貸すと、問題が起きたときに対処しにくいから嫌だ。
 よそ者が地域社会で問題を起こしたときに、周囲の人に迷惑をかけてしまう。
 盆や正月など年に何回か帰る時のために、自由に使える家を確保しておきたい。
 すべてもっともな理由で、ぼくのような旅人が口を挟む余地はない。しかし、恐らく一番大きな理由は、世間体が気になるから。
 「○○の家は、近ごろ島にあまり顔を見せないと思っていたら、屋敷を貸さなくては(あるいは、屋敷を売り飛ばさなくては)いけないほど、全に困っていたのか。そう言われるのが嫌なんですよ。それくらいだ
ったら、放っておいた方がいい」 過疎に悩む山村でも、まったく同じような話を幾度か聞いたことがある。
 なんとか過疎に対処したければ、空き家を貸せばいいではないか。
 世間の目が気になるならば、過疎対策に協力するためという綿の御旗を、行政が空き家の持ち主に提供すればいいではないか。
行政が空き家を借り上げて仲介者となり、希望者に貸せばいいではないか。酒を呑みながら、そんな話をどれほどしたことか。
 しかし、制度化されたという話は聞こえてこなかった。代替りして、古くから根をはっている精神構造が変革されなければ無理なのだろうかと思っていたら、岡山県笠岡諸島の高島で、行政が関わる「島づくり海
社高島支社」が仲介して家を貸し出す(あるいは売却する)制度が生まれたと聞いたのが、平成14年。
 16年にマスコミで取り上げられたのをキッカケに、5ケ月で高島の空き家四軒は埋まってしまった。その後、北木島や真鍋島も含め、17年末で、9世帯15名の移住受け入れという実績をあげている。

■島だからこそ価値がある
〜「グルメ北木島」の山田さん夫妻〜

 平成18年の1月21〜22日には、初めての「空家巡りツアー」なるものまで間催されると知って、どうしても参加してみたくなった。どんな人たちが、どんな想いでやってくるのだろう。果たして、どんな反応を示すのか。そして、すでに移住している人たちの詰も聞いてみたい。
 ツアー催行前日、北木島へ渡った。観光とは無縁の島でレストラン兼宿をはじめた移住者がいると知り、話を聞いてみたかったのだ。北木島(大浦)港で「グルメ北木島」の山田美佐子さんに迎えられ、そのま
ま島北部の豊浦にある宿へ向かった。
 グルメ北木島の海に面した庭では、主人の山田康博さんと石材店に勤める河野正則さんが、一仕事終えたところだった。バーベキューハウス、テーブル&椅子、石風呂、門柱などなど。余っている石材を使って、
暇をみては新たな設備を次々と造っているのだという。出来栄えはプロだが、仕事というよりは楽しみという感じ。
 16年の9月20日にオープンすると店はすぐに大賑わいになり、のんびりするつもりの山田さん夫妻は、これまでの人生のなかで一番化しくなってしまった。河野さんは最初距離を置いて二人をみていたという。しかし、積極的に島人たちと交わろうとする山田さん夫妻をみているうちに、「今や、ヤッちゃんよ〜、だもんね。波長が合ったんやろ」「自然とそうなるよねー」 と、山田さんも嬉しそうに相槌を打つ。長年の友だちのよう。山田さん夫妻は、京都で17年間フレンチの店をやっていたという。
「ボート持ってる人がなんで島に来るんかな言われたけど、海が好きやし、釣りが好きやし、すぐにボートに乗れる場所がええと思って、来ただけや」 その前に、愛媛県の魚島へという話がほぼ決まっていたのだが、事情があって宙ぶらりんのままに。そこで、新たな島を捜していたのだという。図書館で見つけた『シマダス』を精読して、交通の便、医療など、さまざまな条件を検討して北大島へやってきた。
 島の中を案内してもらっているとき、海に面して建っている石材店の空き事務所に強く心が惹かれ、帰りのフェリーのなかで移住を決心していた。そして、引っ越してきたのはわずか半月後。空き家の持ち主を
紹介してもらい、改装したのが現在の店兼民宿である「グルメ北木島」だった。
 「島だからこそ価値があるんですわ。人に来てもらおう思ったら、なにか名物を作らんといかん。ぼくの思惑通りですわ。島だからこそ話題性があって紹介されるし、だから人も来た。島ではいらんこと考えんで
もいいし、先のことを考えんでもいいし」 島暮らしを存分に楽しんでいる夫妻は、移住者を求めている島では「地元のええとこしか見せてへん」から、「安易な考えで来んように」と釘を刺した。

■島に越して生まれ変わった〜北木島の宮本さん〜
 翌朝、同じ豊浦へ平成17年3月に引っ越してきたという、宮本吟さんが迎えにきてくれた。健康を損なったため、転地療養を兼ねて移り住んできたという宮本さんだったが、島の空気が合ったのだろう、とても生き生きしている。
 北木島にきたキッカケは、お母さんがテレビで見た「笠岡市島おこし海援隊」(離島行政専従の市職員からなる市長直属の組織)の活動だった。娘の健康を案じていた母親は、島の方が環境がいいのではないか
と直感した。そして、すぐにご両親が島へ下見にくる。吟さんは、母親に北木島の写真を見せられた翌日北木島を訪ね、海援隊の守屋基範さんの案内で島を巡った。それからすぐの3月12日に転居を決意し、翌週の20日にはもう引越ししてきた。隣近所の人や守屋さんの関係者がたくさん手伝ってくれたので、引越しはアッという間に済んでしまったという。
「その頃は杖をついていて転地のつもりだったんですが、長くいたいと感じるようになって。一年間は集落のすべての行事に参加したいので、必ず声をかけてくださいとお願いしました。そして、町内会や婦人会にもすぐに入れてもらいました。迷惑をかけることも多いだろうから、早く島に溶け込みたかった」
 吟さんは、町内会の行事があるたびに参加者の写真を掘っては配って歩き、近所付き合いのキッカケを作るとともに、人物の下に○○さんとか△△姉などと名前を記して、集落全員の顔を覚えるよう努めた。
「基本的に努力は必要です。でも、肩に力を入れ過ぎても挫折してしまう。島にくることによって失うものも多かったけれど、今日一日穏やかに暮らせたら、自分にとってプラスだと考えています。これをせんといけん、という生きがいをもっていれば、なんとかなります。島の人は器が大きくて、包容力がありますよ。島へきて、プチ生まれ変わり≠ェできました」 現在、ホームヘルパーの資格を生かし軽自動車を駆って、島に新しくできた介護事業所を手伝っているという吟さんは、療養中の人ではなく島人の顔をしていた。

島のリーダーとなるような方々に〜白石島公民館長の天野さん〜
宮本さんと別れた後、一度船で笠岡港まで戻ると、海援隊の守屋さんがハンドマイクを片手に案内をしていた。港に集まった「空家巡りツアー」の参加者は、受付を済ませ参加費用一人一万円を払い、日程表、空
き家データベース(家賃は月に一〜二万円)、島々の概況などの資料を受け取る。
 日程の概要は、一日目は笠岡港から白石島へ渡り空き家を見学した後、真鍋島へ。
ここでも空き家や古民家を利用した宿「おばあちゃんの家」を見学後、船で島の南側にある三虎旅館へ。「島生活のすすめ」などの講演を聞いてから、参加者交流会を兼ねた夕食となる。二日目は、宿の前の桟橋から船に乗り、北木島へ移動。空き家を見学し、途中で移住者の話も聞いて、グルメ北木島で昼食をとり、笠岡に戻って解散。
 参加者だけでも18八組33人いる上に、海援隊のメンバーや何組かの取材陣もいたので、海上タクシーの幸進丸だけでは乗り切れず、行政連絡船に分乗した。ちなみに16組27人の参加者が53歳以上で、残りは34歳の女性と3人の子どもを連れた若夫婦だった。5人家族を含めた2組が大阪、もう1組が愛知在住で、残りは岡山県内在住の人ばかり。
 告知した範囲が県内中心だったこともあるだろうが、募集した側が現実的な参加者の選択をしているのだろう。遠くからでも近くからでも、受け入れ側としては人口が増えることには変わりない。ある程度近く
て土地鑑がある人の方が、なじみやすいかもしれない。
 最初に寄港したのが、白石島だった。公民館長の天野正さんたちが出迎え、歓迎の挨拶をした後、「島の人口は減っているが、もう少し頑張りたい」と締めくくった。すぐに、マイクロバスに分乗してデータベース一番の物件、原田節邸へ。築40年ほどの物件だが、よく手入れされていて多少掃除する程度で、すぐに入居できそう。木造平屋の家にはダイニングも含め六部屋あり、建物面積は約150平方メートル。屋内を見学
する前に、天野さんが家について説明する。
 「こんな作りの立派な大きな家は少ないですから、みんなこんな物件だと誤解しないようにしてください」 持ち主が外国航路の船長だったというだけあり、海外の珍しい木彫りなどがたくさん飾ってある。内部を熱心に見て回る人もいれば、家賃、水回り、井戸、空いている畑の状況など、興味に応じて天野さんや管
理人に次々と質問を浴びせかける人も。
 別の物件や海が見える購入可能な土地などを見学して海辺まで下りてくると、オール雪花という新しく小綺麗なアパートがあ つた。空き部屋は、素泊まりの宿として貸しているらしい。ここに多くの人の関心が集まった。島に住んでみたいけれど、まずは島や鳥人とお見合いして相性を確かめてから、ということだろうか。
 「他所からきて島のリーダーになってくれるような人が増えるといいんですが。そうなれば、どんどん貸してくれる家が増えると思うんですよ」 と、天野さん。確かに、鳥人にとっても今は様子見、お見合い期間なのだろう。仲人さんが信頼に足るようであれば、新たな話(空き家)を提供しようといったところが。
海援隊の守屋さんも、似たような思惑を語った。
「今回とんとんと話が決まらなくても、このツアーがキッカケになって、新しい空き家の発掘に結びつけばと思っています」 空き家に関心を持つ人の群れを目にすれば、自分の空き家を貸してもいいかな、と
いう島人も現れるに違いない。

島となじめたのは犬のおかげ〜真鍋島の金政さん〜
 次に訪ねた真鍋島でも、島づくり海社真鍋支社長の川上敏夫さんと同社副社長の森本洋子さんの案内で、何軒かの空き家と築200年以上という貸切古民家「おばあちやんの家」(素泊り3900円)を見学。台所には現役の竃も残されていて、戦前の島の暮らしを体験できるようになっているためか、参加者の多くが興味を示していた。
他の空き家のなかには、元の教員住宅も混じっていた。
 今晩宿泊予定の三虎旅館は、車道の通じていない島の南海岸に面して建っているため、船を使うか山道を歩いて行くしかない。
船で移動する予定と聞いていたので、ぼくは一足先に歩いていくことにした。足が悪いとかなり辛い小径だが、散策と思えば気持ちいいコースだ。宿で主人の久一博信さんと話をしていると、ばらばらと参加者がやってきた。歩きを選択した人が他にもいたらしい。最後に、幸進丸が十数人を乗せて私設桟橋に接舷して、全員がそろった。
 5時から「島学事始」と題して、不肖斎藤がお話させていただいた。参加者のみなさんは、島のいいところは過剰というほど評価しているはずという前提で、島社会に溶け込むことの難しさや注意すべき点、失敗事例などを話した。もちろん、気が滅入らない程度に抑えてだが。
 続いて、平成17年6月に真鍋島への第一号として移住してきた金政哲夫さんが、体験談を話してくれた。
 「犬のおかげです、島の人たちとすぐになじめたのは。散歩させたらなあかん思うて、犬をつれて歩いていたら、自然に挨拶をするようになって。犬にほだされた、いうんか。学問がないので、親から挨拶だけはきちんとしろといわれていたんじゃ」 当初家はボロボロだったので、憂さ晴らし方々修繕をしているうちに、楽しくなってきた。ようできたな〜、と自分を褒めながら直していった。
 「知らん人ばっかりじやつたから、3ケ月目くらいにホームシックになったが、ここで帰るのもケッタクソ悪いと思っているうちに、するすると8ケ月たってしもうた。
牛、馬、豚、昔からなんでも生き物が好きじゃったから、できたらなにか飼いたいと思っているところです」 と、笑顔で語ってくれた。 かつては、日本三名物ユースホステル(YH)に数えられた「三虎」だが、現在はYHというより魚が旨い旅館として有名で、美味を求めてくるお客が圧倒的に多い。7時からはじまった参加者交流会の席には、大皿に盛られたタイやヒラメなどの活き造り、生きたタコの刺身、蒸したカキやイシガ二、焼き魚、煮魚、てんぷらなどなど。
これでもかというほど海の幸が並んだ。初めて会う参加者同士だったが、話が盛り上がり料理が減らない卓もあれば、話も食事もモリモリと進んでいる席もあった。
 ぼくも入れ替り立ち替り何人かと話をしたが、「いつか島への移住を考えているが、まだ時期までははっきりしていない。どんな感じなのか様子をみにきた」という感じの人が大半だった。
 今回は、そんな人たちに笠岡諸島の雰囲気を感じてもらう、ということでいい。マスコミも何社か同行しているので、彼らが報じる情報によって、また別の人たちが笠岡諸島に興味をもってくれるだろう。マス
コミをうまく活用すると、驚くほど反応がある。海援隊の守屋さんは、痛いほどそう感じているという。

■定年後の住まいを探しに〜倉敷市の三宅さん〜
 翌朝は、三虎の桟橋に船が迎えにきて、北大島へ渡った。
 途中、北木島好きの参加者と知り合った。倉敷在住で釣り好きの三宅則幸さんは、毎週のように北木島へ来ているという。
「60歳の定年までまだ3年あるので、じっくりと捜していい土地があったら、家を建てることも考えています。奥さんの同意? もちろん、相談してOKをもらっていますよ。島にはそれぞれの良さがあるが、自分としては北木島が気に入ってますね。
石の島なので漁師も少ないし、風があっても島のどこかで釣りができる」 瀬戸内の雑魚が楽しいという三宅さんは、「山陰の海には行きません。向こうの海は恐いんですよね」 実は、北木島で気に入った土地が見つかり交渉中なのだが、「いざとなると、チョット待ってくれ」「でも、ハッキリとした拒絶ではなく迷っているようなので、まだ譲ってもらえる可能性はあると思っています」 具体的に考えている人は、自分でどんどん行動するものだ。移住者たちはみな、自分の経験と重ね合わせて、そう語ってくれた。
 北木では島づくり海社社長の鳴本浩二さんと豊浦町内会長の山本勝典さんが迎えてくれ、すぐに空き家巡りがはじまった。参加者は、相変わらず熱心に質問を繰り返している。豊浦の集会所では、昨日話した宮本吟さんが、移住者の経験談を披露。最後は、グルメ北木島で充実した昼食をいただき、12時半に笠岡湾へ向けて出港した。

儲けより人に喜ばれる店を〜高島の福田さんと樋口さん〜
 他の参加者は笠岡港で解散なのだが、ぼくは幸進丸に高島で下ろしてもらった。ここの移住者の詰も聞きたかったのだ。
 活から西側の丘へ向かう路地をゆるゆると登っていくと、「たこ焼」の赤提灯をぶら下げた店があった。そこが福田和子さんとパートナーの樋口将さんが経営する、高島で唯一の飲食店「工房夢想」だった。
 戸をあけてれかをのぞくと、四畳半くら高島の「工房夢想」。
いの空間しかない。福田さんに、そこに立っていないで奥へどうぞといわれて、もう一つ戸があるのに気づいた。中は意外なほど広々としていて、3、40人は入れそう(ちなみに高島の人口は140人ほど)。和風の落ち着いた居酒屋の風情が漂う。妙に居心地のよさを感じさせる部屋だった。
 自由闊達で伸びやかな筆遣いの書が、いたるところに掲げられている。そういえば、店の外壁にも、中央に「人生」「涙」「親子」などと大書し、周辺に詩をあしらった書がたくさん貼ってあった。福田さんが、心のままに書いたもの。          
 大きな座卓の中央に設えた囲炉裏で一生懸命炭火を熾している男性が、樋口さんだった。これから予約のお客さんが3人やってくるのだという。それでは、ぼくがいたら邪魔になるのではないか。
「一緒で、いいじゃない」 と、福田さんはあっさりと言った。こちらは構わないけれど、お客さんたちがそれでいいかどうか。
「いいのいいの、うちではいつもそうだから」 2年前、92歳になる認知症の母親と静かに暮らせる場所を捜していた福田さんに、山陽新聞に「高島で家を貸してくれる」という耳寄りな情報が載っていたと、倉敷に住んでいた樋口さんから知らせが入った。
島に下見にきてみると、「病院も警察も学校も、な〜んにもない。それがよかった」 それからすぐの平成16年5月に、福田さんのお母さんとともに3人で移住してきた。引越しの荷物はトラック2台分あったが、「島の人はみんな人情があって、20人くらい手伝いにきてくれ、ぜ〜んぶテーラー(小型トラックのような輸送機器)で運んでくれたんですよ。金がないから、楽しかったね。今日は、貝採ってくるか〜つて。野菜は買わんでええし、魚はごそっともらえるし。島の人が本当によくしてくれる」「この家を借りた時は、お化け屋敷だった」と大工の樋口さんが言うと、福田さんも畳みかける。
「そうそう、トトロでも住んでそうだった」雨がザーザー洩るようなボロ家だったが、終の棲家になるのだから、せっかくなら住み心地の良い家にしようと、7月から2人で大改造に取りかかった。
「島にきたのが良い刺激になったんでしょうね。ボケていたお婆さんが、庭の草むしりをバリバリやってくれて、本当によかった。今はまた、戻ってしまったけれど」化け物屋敷は、4ケ月ですてきな「和の家」 へと生まれ変わった。そしていつの問にか「せっかくだから店でも開こうか」という話になっていた。改めて室内を見渡しても、荒屋だった面影など微塵も感じ取れない。ただ酒落た雰囲気が漂うだけ。
「島の人たちへのクリスマスプレゼントという想いを込めて、一昨年の12月24日にお披薄目をしました。こちらが驚くくらい喜んでくれた。日が沈むと島は真っ暗なんです。だから、ちょっとイルミネーションがあるだけでホッとする、そう言ってくれた人もいた。お年寄りはこんな店に入る機会は滅多にないので、入るだけでもドキドキするなんていってくれて」正式に開店したのは、明けて17年の元旦。よりによってそんな日に店へくる人はいたのだろうか。
「開けた途端、大賑わいの満員でした。お年よりも、帰省中の若い家族連れも、みんなきてくれた。珍しいということもあったのでしょうね」 話を聞くうちに、予約していた3人連れがやってきた。30前後とおぼしい若者たちで、女性も一人混じっている。福田さんが、「この人たち東京からきているんだけど、ここで一緒でいいよね」 若者たちは嫌な顔もせずに、ぼくの前に座った。
「あんたたち、お酒はもってきたの」「はぁ〜、そういわれたので、もってきましたけど……」「それなら、いい。うちにも酒は置いているけれど、それを出すと少し余計に貰わなくちゃならなくて、高くなってしまうからね」 う〜ん、それでは店は成り立たないじゃないか。
「うん、ぜんぜん儲かっていないよ。赤字続きで、金は全然ないね。いいの、ここでみんなが寛いでくれれば」酒持参で白菜漬けを一皿とり、4時間楽しんでいった人もいるという。それも旨い旨いといわれて、何回も漬物を補充してあげたとか。経営者としては失格かもしれないが、つくづくすてきな生き方だと思って
しまう。経営者としては優秀でも、人間として失格という輩は世に満ちあふれているのに。
「もういいじゃない、取材は。一緒に呑もうよ」福田さんがそう言うと、青年たちも追い討ちをかける。
「いいじゃないすか、もう。一緒に呑みましょうよ。東京の人と呑むなんて、生まれて初めてですよ。この焼酎でいいすか」そういいながら、焼酎の水割りにダイダイを浮かべてくれた。目の前の網の上では、炭火に炙られた新鮮なワタリガニが赤くなりはじめていた。


※編集部注:その後、笠岡市の「空家巡りツアー」は、平成18年3月21日まで計6回にわたって実施され、遠くは千葉や北九州など全国から88人の参加者を数えた。ツアーの実施がマスコミなどで取り上げられたことにより、個別に問い合わせと見学の申し込みも相次ぎ、2月に大阪から白石島へ1世帯3人、3月には札幌から北木島へ1世帯(ご夫婦)がそれぞれ空き家へ転入。真鍋島へも2世帯が転入される予定である(詳しくは「島づくり海社空家対策事業部」のホームページ参照)。


この投稿は
財団法人日本離島センター 「しま」No.205 P76〜83
瀬戸内海の今を歩く 斎藤潤 第19景 笠岡諸島(岡山県笠岡市)
笠岡諸島移住事情 移住者たちの声と「空家巡りツアー」より転載しました。


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