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笠岡諸島空家対策物語 有人離島7島を有する笠岡諸島 岡山県の西南端にある笠岡市は、南部は瀬戸内海に面し、西は広島県に接しています。その沖の瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島は、30有余の島を飛石状に連ねて香川県に接しており、このうち、高島、白石島、北木島、大飛島、小飛島、真鍋島、六島の7島が、人々が生活する有人島で一部離島の市町村ではおそらく全国トップクラスの有人島保有市です。昭和30年代の最盛期には全島合わせて10000人余りの人口が現在はわずか2900人と3分の1以下に激減、高齢化率も55%と少子高齢化の先進地といえる地域です。 島同士の連携を密にするために平成10年から6島合同の「島の大運動会」を開催、平成13年4月から島専属の市の応援部隊「島おこし海援隊」組織、平成14年には6島のそれぞれの特徴を活かしながら島おこしの島民組織「電脳笠岡ふるさ島づくり海社」を設立、平成18年9月に法人格を取得し「NPO法人かさおか島づくり海社」と改称し現在に至る。空家対策事業は島の空家を利用して島に人材を取り込む主要事業として進められている。 空家対策は高島から そんな笠岡諸島で空家対策の声が上がったのは平成14年12月のことです。高島のペンションを経営する妹尾陌正さんは当時、電脳笠岡ふるさ島づくり海社の高島支社環境部長ということで、支社長である河田達夫さんと共に島の活性化のための事業を検討してました。 妹尾さんには以前からあたためていた秘策が空家対策事業でした。というのも家業でもある旅館業を営む中で、泊まりのお客さんから「定年になったらこんな島で暮らしたい」という声をよく聞いていたからです。島の現状に人一倍危機感を感じていたため、若い人にも積極的にUターンを呼びかけたりもしたが手ごたえが無い、それなら何とか島にある空家を利用して外からでも人を入れなければ島の将来は無いと考えていました。 私は島おこし海援隊として島の専従職員として平成13年4月から島に入り、島の活性化をすすめる島民組織電脳笠岡ふるさ島づくり海社の事務局としてその会議に参加しており、妹尾さんの自信に満ちた口調での提案は願ってもないアイデアであったことを覚えています。
高島で空家4件確保 平成15年6月ごろまでに空家の持ち主への家を貸してくれないかというアンケートを送付し、集約が終わったが、結果は所有者50数名からの回答は全てNOでした。その備考欄には「盆や正月に帰るから」「定年になったら帰るかもしれない」というコメント。妹尾さんは現に島に住む我々と島を出ている人との意識の違いに愕然としました。「島を守る我々の気持ちになれよ」と思わずつぶやいた。 しかし、妹尾さんはめげず、海援隊(行政)が島を応援してくれる今がチャンスだと考え、海援隊を島に引き込むためにも我々が頑張らなければという思いを持っていました。そして、平成15年8月妹尾さんから電話がかかり、「空家を4件確保したからインターネットで募集してくれ」というものでした。私はすぐに高島に渡り妹尾から説明を受けました。聞くところによると全てが妹尾の親戚関係の物件で、いわば身内を犠牲にしての賭けに出たというものでした。早速私は、物件の写真と間取り図を書き、家賃を妹尾さんと交渉し島づくり海社のホームページで公開すると共に市や県へも募集チラシを配布PRを進めました。入居に関してはかなりの補修が必要ということもあり、補修は入居者負担ということで家賃は格安の月1万円と設定されました。 思わぬテレビ全国放送 運よく、その後3ヶ月が経過し、日本テレビから取材の電話がかかってきました。あるバラエティ番組で取り上げたいということでした。 平成15年11月末に2日間に渡る番組取材の後に、平成16年1月に全国放送さました。 放送の翌日から妹尾さんの自宅の電話は鳴り続けました。下見希望の電話やいきなり下見に来る人の対応などで、その応対は1ヶ月近く続きました。妹尾さんの対応としてはまず下見の希望日時を決めて全て支社長である河田さんと共に一人ひとり港へ出迎えて案内、遠方の人は自分の旅館に泊めて島の生活などについて熱く語り続けました。その間、問い合わせ80件そのうち下見40件という数であった。岡山・倉敷・福山のほか、大阪・京都・東京など都市圏からの下見が多かったようです。 この妹尾さんの対応が、以後の空屋対策での対応に引き継がれています。ある東京から来た夫婦、家が狭く移住は実現しなかったケースではあるが、妹尾さんの対応に感動し帰り際に「移住は実現しなかったけれどこの島が好きだ、妹尾さんのいるこの島で生活したかった」と目をうるませて話していた姿に私は感動しました。この言葉は今でも私の心の中で響いておりそれ以後の空家対策事業の手法の原点となっています。 それは、地元で生活する人が島の将来を考え自らが島のために動くことのすばらしさ、熱い想いを地元の人が持ていないと本当に地域に欲しい人材は確保できないということではなかろうかと思います。 笠岡諸島移住1号宮部さん高島へ そして平成16年2月19日に高島へ移住第1号の宮部誠一さん智恵子さん親子が滋賀県から引っ越してくることになりました。 宮部さん親子は誠一さんが病気療養のため暖かい新天地を求めていたもので、移住が決まり、島の動きもおのずから活発になっていきました。初めての移住ということで何から手を付けてよいのか試行錯誤でした。地元は借りる予定の物件周りの清掃や内部の物品の整理、当日の引越し要員の確保、運搬車の確保を行い、海援隊は引越し業者の確保、運搬フェリーの確保、報道機関等々の連絡調整を行いました。 引越し当日は島民20名が宮部さんの引越しのフェリーを港で待ち受け、高島の黒土港からひと山越えた与太郎まで約700mの細い道を小型運搬車に積み替えて4時間余りで引越しを終えました。 移住第1号の宮部さんが笠岡諸島に移住されて丸3年が経過し、宮部さん一家にも大きな変化がありました。翌年に娘の智恵子さんが島の漁師と結婚家族も増え、誠一さんは島の荒地を開墾して野菜作りに精をだしています。智恵子さんは夫である信夫さんの漁の手伝いをする傍ら、予約の観光底引きの昼食のまかないもこなします。もちろん、昼食に出てくる野菜は誠一さん自慢の手作り新鮮野菜です。 その後平成16年2月23日に岡山市から定年退職後島暮らしに憧れていた江西住夫さんが2番目に移住しました。平成16年5月に総社の山本さん、倉敷の樋口さん一家が移住を決めて高島の空家はこの時点で満杯となりました。 空家対策事業、北木島へ 高島の空家が埋まった後も田舎暮らしブームに乗って問い合わせは後を絶ちませんでした。高島の移住実績をふまえ、島づくり海社社長の地元北木島豊浦での空家探しが始まり、鳴本社長をはじめ、当時の山本町内会長の協力のもと数件の空家が見つかり事業は北木へと受け継がれました。
平成16年8月17日盆明けに京都から山田さん夫妻が島でレストランを経営したいと島を訪れました。これまで、瀬戸内の島をいろいろ探していたが良い物件がないということで笠岡の空家対策をホームページで探し当て下見に訪れました。北木島はまだ移住実績がなく個人の空家もほとんど当たっていない状況の中での下見で、まず、目をつけたのが以前診療所だった町内会所有の物件。住居兼店舗にするには大きさ的にはいいが住居部分がかなり老朽化・診療所だったところを店舗にするにはかなり改造費がかかりそうということで見積もりをとって欲しいと依頼を受け、その後島内を案内しました。 そして、島での商売の方法も含めアドバイスをもらおうと考え、豊浦で料理屋を営んでいる「南国」の岡本さんを訪ねました。岡本さんは同じような飲食業者が集まることにより、足の引っ張り合いでなく相乗効果があるということで積極的に相談にのっていただき、現在のグルメの店舗物件を紹介してもらいました。この物件はコンクリートブロック2階建てで1階は事務所・2階は住居にしていた物件。陸地部に事務所及び工場を移転した関係で15年ほど前に空家になった。それまで売買の問い合わせもあったが話が進まなかったらしい。南国さんを通じて直接社長と交渉。「あんたが言うんだったら・・」ということで二つ返事でOK。後日下見ということになりました。後の話ですが、家主である石屋の社長はそのとき南国さんが事務所を買いたいと勘違いしたらしく、その後話がとんとん拍子に進み、売買契約が成立、9月21日には引越しというスピーディな展開となりました。山田さんの発想の中にレストラン兼民宿という発想が当初からあったらしく、事務所物件だけでは狭いということで住居物件を希望。鳴本理事長が同じ地区内(豊浦地区松原)へ賃貸の住居物件を見つけて交渉。家賃1万円で契約成立。賃貸物件のオーナーは島の人ではなく笠岡の神島外浦の方で、鳴本理事長の知り合いで空家対策事業を新聞等でご理解いただいており、家賃交渉の際にも先方から「家賃1万円でしょ?」と言っていただきスムースに借りることができました。 山田さんは引越しから約2ヶ月11月26日レストラン「グルメ北木島」をオープンしました。島でのレストラン開業は大きなニュースとなって新聞・テレビが取り上げ、島でフランス料理のレストランというミスマッチは思いの外、宣伝効果は抜群であったようです。そして、半年後に2階部分を中心に民宿の営業許可をとり、宿泊も出来るようになりました。 成功事例ばかりではありません。 平成17年11月に神戸からSさん息子(29)親父(54)が真鍋島に引越ししてきました。動機は息子が漁師になりたいということだったので真鍋島を紹介し、今住んでいる家を引き払わなければならないとのことで、急遽島で仮の家を確保、移住を受け入ました。時期も丁度11月で真鍋島は海苔のシーズンでその仕事を手伝うことにりました。生半可でない漁師の仕事3日も経たないうちから腰がいたいと言い出し、5日目から腰が痛いので仕事が出来ないと休み始め、1週間程して「神戸の弟の靴の店が開店するから神戸へ帰らないと行けなくなった」といいだし、半月も経たないうちに島を後にしました。 入る人の都合で島の人は仕事を用意し、空家も確保し、引越しも手伝った。移住してからも若い漁師の仲間ということで歓迎会も毎日続いた。島の人はかなりの期待をしていたがそれが重荷になったのか。あとから冷静に考えてみると終始、自分の都合のみで人を動かし振り回されただけの苦い体験でした。 唯一、翌年平成18年1月に放映された「10万円で1ヶ月豊かに暮らせる町・村」のロケが丁度この家族の引越しの時にあり、島の人がこぞって移住者を迎える映像になり、島の温かい雰囲気が伝えることが出来たのが良かったといえば・・・。放送当日には既に島にいない現実を放送局に正直に事前に話すと、「字幕に平成17年11月撮影という字幕をいれよう」ということになり、ほっと胸をなでおろしたことも思い出されます。 空家めぐりツアーの企画は・・。
空家めぐりツアーの企画は平成17年11月末の東京池袋サンシャイン21で開催の「アイランダー2005」での笠岡諸島のIターン促進のための目玉企画として考えました。このイベントは全国の離島が一同に会して島の観光や特産品の販売したり伝統芸能を披露したりという年一度の島のお祭りです。2004年から参加して感じたことは東京で何をターゲットにするか!島の独自性!ここで特産品を売っても・・。観光をPRしても・・。Iターンにのみポイントを絞って移住を考えている人に相談しやすいブースをというのが今回のコンセプトでした。これまでの移住者の生活ぶりは東京の雑踏の中で働いている人の心を引くものであったと思います。案の定、空家めぐりツアーのチラシへの手ごたえは大きいものでした。しかし、東京と笠岡諸島は少し距離があるというイメージはぬぐえませんでした。 この空家めぐりツアーは10名限定で2006年1月21日(土)〜22日(日)の1泊2日で笠岡港からチャーター船で白石島・真鍋島の空家と島を見学し、真鍋島で宿泊し、島関係のフリーのライターや先輩移住者の話を聞き、翌日は北木島を見学し、昼食を先輩移住者のグルメ北木島でとるというもの。田舎暮らしブームの中で空家がツアーの主体になるとは・・・。いやはやおかしい次第で・・。 12月後半から募集をはじめ、募集10名のところ50名近い応募があり30名に定員を増やし実施、岡山県内・福山市をはじめ、遠くは愛知県や大阪府からの参加者もあり関心の高さをあらためて感じました。 ツアーイベントの必要性は、広報効果だと考えています。このツアーには新聞社はもちろん5社のテレビ局の取材がありました。空家事業の広報という意味から、空家を確保するために京阪神で生活している島出身の方へのメッセージを伝える意味、島を空家を探し回るツアーの様子は島の人にこんなに島暮らしの要望があるのかとあらためて感じさせるものであると思います。 「10万円で1ヶ月豊かに暮らせる町・村」放映後 空家めぐりツアーの1週間前の平成18年1月16日にテレビ東京で笠岡諸島の移住受け入れの番組が放映されました。翌日から電話の嵐でした。私の携帯電話は1ヶ月近く鳴り止みませんでした。その数ざっと400件。メディアのすごさを身をもって実感しました。そこで考えたことはまともに受けていたら身が持たない。しかし、この流れを活かしたいということでした。 400件の問い合わせを自分なりに分析し、まず「1万円の物件まだありますか」という問い合わせについては丁寧に「問い合わせが多くなくなりました」と回答。約半分の200件が捌ける。次に「島でゆっくりしたい」という問い合わせに対しては「3日もぼーっと海を眺めていると飽きますよ」「コンビニも仕事もありませんよ」というとその半分100件が捌ける。最後に残ったこの100件について対応する。 ほとんどが団塊の世代以上の方々、本来の目的は子供を持った世帯の移住だが、この数をどうにか捌けないかと考え、団塊の世代については1月24日から3月まで5回の空家めぐりツアーを新規に企画し、案内した。丁度1月〜3月は閑散期で観光客はあまり来ない。1日で3島を回り、朝早くから夕方までツアーを行えば、遠くから来る人は前泊するし、その日に帰れないから後泊することになる。そして昼食はグルメなどの移住者の経営するところを使う、船便が悪いところは海上タクシーを利用するなど、島にお金の落ちる仕組みを考えました。合計88名の方が空家ツアーに参加していただきました。 しかし、このツアーで移住につながったのは現在白石島に居住している三木さん夫婦のみです。この手のツアーではなかなか移住につながらないということが判ります。ツアーは空家対策の広報手段と割り切っています。 もう一つ、移住につながらない理由として若い子供を持った世代や技術をもっている人(介護士・看護師など)についてはこのツアーとは別に個別対応で空家を紹介、必要な島へコーディネートするという作戦を取っているからです。よく隣に座って電話を聞いている人が面白く言う「子供を持った移住者には対応が全然違う」そう声色が変わるのです。 真鍋島に移住ラッシュ2世帯10名 テレビ放送の後に真鍋島に子供を持った世帯の移住の話が上がりました。 2月の中旬に連絡があったのは福山の金城さん。母子家庭で子供が5人いる。真鍋島は島づくり海社の副理事長森本洋子さんが空家対策の窓口になっており、来年度は中学校が2世帯4名になるという危機感をもっており子供の世帯の移住を望んでいました。早速連絡のあった翌日子供4人連れての下見だった。子供が島の学校に興味を示さなければ難しい面があるので学校を休んでも連れてくるように言ってあった。長女が喘息の持病があり、空気の良い田舎の学校を探していたところテレビを見て問い合わせたようでした。下見までに森本さんは金城さんの住む家にめどを付けており、下見で家も見ることが出来ました。港の横にあるすごく綺麗な物件でした。森本さんの心境として子供は欲しいが島で食べていくことは女性の身ではかなり大変であるということを考えており、たやすく受け入れるともいえない気持ちだったと思います。しかし、森本さんはこれから島に必要な仕事は介護関係スタッフ。すかさず金城さんに「すぐにヘルパーの資格をとりなさい」と助言しまた。金城さんと森本さんは連絡を取り合い程なく金城さんの気持ちは固まり真鍋島への移住を決めました。平成18年3月末に金城さん一家は真鍋島へ引越しをしまた。そのとき金城さんは既に「ホームヘルパー2級」の資格を取得していました。
久保田さんから連絡があったのは2月の終わり、妻の智子さんからメールが届き、すぐにこちらから電話連絡を入れました。これも、子供のいる世帯で対応はすこぶる丁寧。早速3月始めの下見の日にちを決めました。このとき私から森本さんへ「寿司職人いらんか?」という電話を入れました。森本さんは2005年に笠岡諸島で開発した「しまべん」(島で作る弁当)を常時供給できる施設として「マナコッチハウス」を建設しており、専門家が欲しいと言っていたのを聞いていたからです。久保田さんは東京ですし屋を開業していた寿司職。瀬戸内の海のそばで、魚を使った仕事がしたいということでの問い合わせでした。 私はすぐに下見の日程を決め森本と連絡を取りながら事をすすめた。丁度下見の初日は私が出張のため真鍋島で森本さんが対応することになりました。森本さんは東京から家族4人が下見に来るだけで多額の費用がかかることを考慮し、マナコッチハウスの2階の部屋にとめ食事について自らもてなした。森本さんは移住に関しては皆のサポートが必要ということで同世代の親を集めて既に歓迎会のようなものを催し久保田一家も打ち解けていたようでした。2日目に私が久保田さんに会った時はこれまでの不安が無くなったような感じを受けました。私も全て島の方々にまかしていたわけではなく、昼から笠岡へ渡り久保田さんの働く所を確保するために知り合いの仕出し屋の大将にお願いし面接に連れて行きました。大将も丁度寿司部門の拡張を考えていた矢先の話でとりあえず内定をいただきました。しかし、島からここに通うには定期船では遅いので店のボートを借りる段取りまでしてくれ、その後、久保田さんは東京に帰りました。 真鍋島に2世帯10名の移住希望は嬉しい話ですが、住居と働く場の確保については最後まで難航しました。しかし、島の子供を増やしたという気持ちは不可能をことごとく可能にしていきました。住居については、金城さんの決まりかかた賃貸の話も流れ、新規に2世帯の確保を余儀なくされ、民がだめなら官とばかりに、真鍋小学校の教員宿舎に目を付けて市と交渉。市営住宅的な考え方で市が基本的な部分については整備し、それを家賃に跳ね返して月々払う方法をお願いしました。都合よく、当初の部分と建て増し部分がありそれを2等分して2世帯に貸そうという話になりました。廃墟と化していた教員宿舎が2世帯の住居となったわけです。 働く場の確保の問題については、金城さんは引越しする3月末にはホームヘルパー2級の資格を既に取っていました。島の中でも何かないかと首をひねっていたところ、3月末で市の施設の管理の人が退職することになり、その後を金城さんにお願いしないかとの話が舞い込み6万程度は確保でることになりました。今ではその上に登録ヘルパーとしてまた海苔の加工などの仕事を森本さんのところでやりながら何とか生計を立てています。 島の人に迷惑をかけられないとの理由から笠岡での仕事の内定はもらっていたものの久保田さんは出来ることなら島で働きたいという要望が強く、これまでの寿司を握る機械のような働き方に疑問を感じ島へ移住したのに、また笠岡で同じ事をするのはという考えを持っていたところに、森本さんからせっかく真鍋島に来たのだからマナコッチハウスでしまべんなどを作りながら生計を建ててはどうかとの正式な打診があり、自分の腕を活かせる島での仕事を選びました。この時点で森本さんにも「しまべん」で生計が立てられるという見通しもなかったがマナコッチハウスのローンもあり腹を決めました。その後、森本さん・久保田さんのコンビで「しまべん」をはじめ、週2回の高齢者の弁当サービス、マナコッチハウス2階喫茶での昼食サービス、法事の仕出し、おせち料理の予約に至るまでがむしゃらに取り組み現在に至っています。 久保田さんは4ヶ月後の8月東京に残した母芳子さんを島に呼び寄せ、妻智子さんと共に3人で頑張っています。 空家対策初移住から3年を迎えて
これまでの空家対策事業を振り返って平成19年2月25日に笠岡で「島暮らしを考えるシンポ」を実施しました。空家対策事業で滋賀県の宮部さんを迎えてこの2月で丁度3年を迎える節目にも当たり、この間17世帯38名の方を島に受け入ました。果たしてこれが島のためになったのか、島の人はどう思っているのか?移住して来た人たちの思いはどうなのか?あらためてざっくばらん意見交換の場として設定しました。 移住者の中からは本当に積極的な意見が多く飛び出しました。空家対策の目指す島の人材確保の部分で、島の現状について島民とは違う視点から既に実践されていることを本当に心強く思いました。前述もしましたが、移住を決定してから島に入り1年ぐらい経たないと本当の意味で島を知ることができない。島の人もいろんな立場から移住者を見ている。受け入れる側の意識・体制作りも必要で、行政の仕事として受け入れた後のフォロー体制として定期的な移住者同士の交流会・島の中での懇談会等お互いが意見交換する場作りを行い、移住者と島民が同じ思いで新たなる地域の人材確保の意味での空家対策を議論することが求められています。 今後の笠岡の空家対策事業は @NPOの各支社の体制作りを強化し、これまでの経験をマニュアル化し、広く移住者を迎える方法を研修し同じ想いで頑張る人づくりを進めたい。 A受け入れる地域としてこの地域にはこんな人材が欲しいという地域の考え方ビジョンを明確にし、「地域再生」の観点からの空家対策としたい。 B「試し入居」が出来るような体験空家を整備し、そこで体験入居する人が地域の仕事を通して地域に貢献できるしくみ、地域のコミュニティの中で交流する仕組みづくりを行いたい。 との指針を出して今年のテーマを「お互いのライフスタイルを尊重し夢を追える空家対策事業」として移住者の相談にあたっています。 |